2025年2月28日

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2025年2月28日 (ハイパー神商)

 

そろそろ都合良く忘れた頃なので、瘡蓋を引っ剥がしておくと。

論理のことは論理でせよ!

前回のハイパー論理では論理を群論に適用したわけですが。

リー群から抽出した概念として。

解析で背理法のライバルと目される

「微分」

なら、どうか?

(厳かに。)

 

論理とは無関係に正しさ保存できるのでは?

より精緻に言えば、

「微分を使う場面限定の演繹は論理と無関係に正しさ保存されるのでは?」

物理猿のimpossible dreamとは、こういうこと。

キホーテが妄想抱いて風車に突進するような脳使いですな。

(最近はキチガイ(kichigai)という日本語が、そのまま流行しつつあります。

神の私が世界語として採用しましたからね。)

 

今回は、論理学におけるイロハのロ程度の話題です。

この世には、そのレベルの論理常識が分かってない猿が圧倒的に多いのよ。

数猿ですら分かってないことが判明したし。

一部の論理猿ですら分かってない模様。

まして、況や、物理猿をや!

というわけで、今回は宙爆ではなく。

クラスター爆弾による絨毯爆撃を。

 

注意:

「(関数の)連続性」

の定義は論理手法ですが。

今回、ここで論証・分析するのは、そういうド素人レベルの課題ではあらしゃいません。

ちなみに、イロハのイがterm系の話題でした。

この程度でも、あの程度の課題が潜んでいるのですよ。

一方、ハイパー論理の基本中の基本である、イロハのハになると。

誰も判ってなかった風情。

後に取り上げます。   ┤

 

数学で’法と言えば、微分の場面で使うのが伝統的でした。

しかし、私が論理において’法を提唱しました。

この深謀遠慮というか、皮肉が理解できてない様子。

論理の’法は微分の’法のライバル棲み分けじゃあらしゃいません。

微分の’法より根本的な、それこそ根っこの概念です。

群論のterm系基礎解釈も、この流れでした。

では、具体的に、微分の演繹では何処に論理が潜んでいるのか?

 

最も本質的な

「微分のセマンティクス」

に潜むのです。

どういう意味か分かるかな?

(連続)関数f(x)に対し

「f(x)’とは何か?

何であるべきか?」

 

「x座標の点xにおけるグラフf(x)の接線の傾き。」・・・(接)

とか習ったでしょうけど。

あれは高校生レベルの問題。

古典物理の

F=mα

で加速度αが微分のオリジナルだったので。

(少しはデキルな物理猿も。

ニュートンやライプニッツの力量だ。)

 

古典物理の世界では(接)解釈は朧げに通用しますが。

質量の無い光子まで扱う量子論で微分使う場合。

そういう初歩的な解釈では役に立たないのよ。

量子論での波動関数の場合。

微(積)分使ったら、どういう感性になるのか?

かなり抽象的だと判らせておいて。

ここで理論世界最重要課題を開示しておきます。

 

同じ微分結果に対する

「数学的な正しさ vs 物理的な正しさ」

の相違問題です。

数学で微分を扱う場合、それが正しい微分計算結果なら。

数学証明の意味で、そのステップにおける正しさは保存されるわけです。

この点は確実です。

 

一方、物理のような数式応用の場面で扱う理論の場合。

計算結果として正しくても、物理的に正しさが保証されるわけではありません。

その証拠が実験による反証です。

つまり、物理の場合、正しさとは

「想定モデルの妥当性」

をクリヤできるかどうかです。

ここに純粋数学的な演繹推論とは違う観点が登場するのです。

 

ところが、物理猿は脳タリンなので。

数式使った、数学的な変形が正しければ。

それで物理的にも正しいと思うわけだ。

その結果、

「実験 vs 理論(想定モデル)」

で、ギリギリになるまで、理論の方を優先しようと画策するの。

想定モデルから外れた実験結果は誤差だと解釈したがる様子。

 

しかし、どうにもならなくなると、最後に、理論の方を改変する。

こういう作業の繰り返しです。

ここまでは、通常のパラダイムチェンジ系ですが。

私のハイパーチェンジは、そういうレベルを超えた話題です。

 

ここでの課題はですよ。

「その微分が、量子論の本質に、どう干渉するのか?」

と問うているのです。

だって、量子論とは

「古典物理が通用しない、もしくは大雑把な近似に過ぎない。」

世界ですよ。

古典から見た雑音が本質に転化した分野です。

 

その微分が、量子論の場面で演繹推論に採用されて。

何故、正しさ保存すると主張できるのか?

物理猿に出来る解答は。

「そう思うから。」・・・(思)

この(思)が正しいとする根拠は理論物理猿には無理。

だって、演繹推論してる気分なんだから。

 

しかるに、その実体は演繹推論になってない。

この意味が理解できないはず。

証明作業の全体的な流れがあり。

各ステップ毎に正しさ保存していく。

これが演繹推論ですが。

これを保証するのが形式公理体系からの導出です。

数学の証明は、こうやって実施される(と想定されている)のです。

 

一方、物理の方は、どうか?

形式公理体系構築せず(できず)に。

各場面で都合良く採用した数式を弄ります。

例えば、これが微分だとして。

そのステップでは正しい微分結果を出したとしても。

それが以前の推論過程の、どこかのステップと矛盾している可能性は?

この可能性があると注意を喚起するのが論理ですよ。

そして、この可能性を排除するのが形式公理体系です。

 

ここの秘孔は、

「数学証明 vs モデル妥当」

で、

「数学の演繹証明すれば、モデルの妥当性も保存される。」

と刷り込まれているから駄目なんです。

あれは数学の範囲で通用する話。

この場合のモデルとは集合論の範囲でキチンと規定されるモデルです。

(このレベルすら知らない物理猿が多い模様。)

 

一方、物理、特に量子論で言うモデルとは。

量子の現象を捉える曖昧性を内包したモデル。

ゆえに、妥当性の意味が違ってきて。

結果、演繹の意味にも干渉してくるのです。

曖昧性内包して、どうやって演繹推論するというのか。

原理上無理なんですよ。

 

「枠内近似理論化すれば大丈夫では?」

フッ、そう単純じゃないの。

ここが最大の山場です。

「物理猿が枠内近似理論化した気分の理論は。

集合論の土台にキチンと乗るのか?」

現実は、集合論に乗せ(乗ら)ずに。

アドホックな反射神経的1段推論ばかり実施しているのです。

全体的な流れを把握できてないという意味。

 

別の箇所で、目の前の枠内近似と相克する枠内近似実施しているカモ。

この

「モデル曖昧性」

により、やがては、実験により反証される宿命。

例えば、強い力では、一旦、色荷で枠内近似化できたとしても。

その近似モデルを破るs子が登場するわけです。

s子は誤差か?

 

誤差じゃないとしたら。

色荷近似とは別の箇所で、別の枠内近似から登場したのです。

少なくとも、実験系から登場している風情。

ここまでは従来の

「枠内近似理論 vs 誤差」

の解釈。

このレベルのモデル曖昧性すら知らない物理猿が圧倒的多数ですが。

 

しかし、ここでは、そういうレベルではなく。

物理理論で採用する

「数式(術式)」

そのものについて懐疑しているの。

乗ってるのかな、集合論に。

弱い力のような粗い近似推論が演繹とは、聞いてあきれる。

そもそも、弱い力がB(n)解釈できるという保証は誰がするの?

 

となると、

「量子論とは何か?

何であるべきか?」

演繹推論してると思うのは物理世界でのみ通用する幻想なんですよ。

真理世界では通用しません。

何故、こんなことが言えるのか?

だって、理論Tベースの演繹推論には集合論が不可欠ですから。

 

その集合論のことが念頭にない演繹なんぞバッタものです。

演繹になってない。

何故、その微分演繹が物理の意味で正しいと思うの?

微分は、形式的には

「数式変形操作」

に過ぎませんよ。

 

これが、量子論の、その場面で採用されて。

一体、何を云わんとしているのか?

これがセマンティクスで枠内近似モデルに関係するのですが。

一方の演繹推論としての正しさの保証は?

これを司るのが基礎論理であり、OSの集合論です。

物理ごときに分かるはずもない。

これで379町目。

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