2024年5月28日

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2024年5月28日 (ハイパー神商)

 

前回は二重スリット実験での干渉縞の
「模様バラツキ」
の発生を確かめてから。
状況偏差の不可避性を議論しました。
このレベルの事実関係は理解できたとして。
この結果、得られる世界観は?

 

誤差と状況偏差の本質的な違いを悟るかどうかです。
どう違うのか?
状況偏差は理論基準の誤差じゃなく。
状況依存理論の本質だという世界観です。
整流化の場合で言えば、量子論を背景にした
「電流のユラギ」
に由来します。

 

例えば、二重スリット実験を連続2回する場合に。
まずは、
「同じ(程度の)整流化」
で2回の模様の状況偏差を計測し。
次に、
「整流化の異なる場合の電流」
で2回の模様の状況偏差を計測して。
両者の模様偏差のズレ具合を調べるの。
これで偏差レベルが変化すれば。
電子のユラギ由来だと猿にも推察できるはず。

 

この場合、整流化の精度を上げれば上げるほど。
状況偏差は少なくなっていくか?
この方面の実験は、誰もやってない模様。
(上手いな、掛け言葉が。)
よって、著作権設定しておきます。
実験したければ、私に連絡してからにしてね。
当然、私が筆頭著者になります。

 

ここで質問を。
「状況偏差の解消に限界はあるのか?」・・・(1)
言い換えれば、
「究極には、状況偏差は消えるか?」・・・(2)
(1)に対する解答はYes。
つまり、
(2)に対する解答はNo。
なのですが。

 

このNoが深い。
Noに対する3択問題が登場して。
「(電子のユラギが本質なのだから)原理上無理」
となります。
この事実は実験とは無縁に導かれるので。
実験検証でのイタチごっこでの反証不能性を超えるのよ。
「原理上無理」・・・(無理)
にも、様々なレベルがあるということ。

 

こういう風に新登場するのですよ、物理の決定問題に対する
「原理上無理」
という解答が。
この局面で科学の宿命である
「実験 vs 理論」
が絡んできます。
こういう観点というか、世界観は従来の物理猿には無理。
何故、こう断言できるのかは、ここの解説情報で追々分かってきます。
まとめると

 

人生のハイパー物理原理1
1、物理の原理上無理には(数学の消滅と違い)
「実験 vs 理論」
由来の2種類ある。
2、理論由来の原理上無理は私のオリジナル。   ┤

 

従来は実験経由の(無理)は反証不能性の観点から把握できていましたが。
自然界の究極把握を目指す物理猿には理論経由の(無理)は到達できていなかった。
キチンとタリン脳を整理整頓して。
快刀乱麻に論理使って対処しないと駄目ですよ。
今回の神の宣託が参考になったはず。

 

デモ、何故、理論的(無理)なのか?
それをキチンと理解するのが難しい。
極端に言えば、量子論の本質把握に通じます。
この段階では大雑把に感触を掴めるように解説しておくと。

 

量子論において理論的に重要な論点は、
「自己言及」
しているという事実関係です。
こういう観点は旧量子論では得られなかったはず。
論理様様ですな。
これが、どういう意味なのか?
ここで、メタの視点が登場します。

 

電子を発射して、スクリーン模様を計測し。
電子の本質を把握しようと画策するのですが。
その前提に、電流経由で精度限界が控えているわけだ。
この事実関係が認識できてない猿が多すぎる所為で。
本質把握に対する推論がグルグル回りしている。
理解するためには、思考を螺旋に昇華する必要があるのよ。
こう悟れば次の段階に進めます。

 

実験装置の物理的精度の限界だけが状況偏差の原因ではなく。
量子の本質が状況偏差の種なのです。
こういう世界観の喝破が必要です。
二重スリット実験の場合も、
「状況偏差由来のバラツキ」
が実験結果に干渉するのです。

 

では、何故、干渉縞模様になるのか?
「状況偏差が干渉するからですよ。」
上手いなあ、循環言葉遊びが。
神の余裕だ。
本質(の曖昧性)を言葉で柔らかく包んで誤魔化す手法。
言語処理の曖昧さの見本を提示したわけですが。
これくらい極端にやると、言葉の曖昧さの秘孔がハッキリ見えるでしょう。

 

ところがね、旧量子論では、こういう深層真理が見えなくて。
言葉遊びが罷り通っている状況なんですよ。
その見本が
観測問題
です。

この概念は、未だに、科学的にキチンと定義できていません。
だから、様々な解釈が発生し。
様々な世界観モデルが登場する破目になるのですが。
従来は、これらのモデルは、
「全て同値」
だと見做されるというか。
錯覚してきたわけだ。
しかし、原理上、同値のわけがない。

 

というか、同値と主張できるはずがない。
だって、状況偏差分のバラツキが内包されるのですよ。
つまり、観測行為に状況偏差が干渉するのよ。
その結果、
「観測の曖昧性」
が発生します。
これを、どう言い包めるか。

 

それが、近似モデルの腕の見せ所でもあるのですが。
モデル共通の数式として、
「シュレディンガー方程式」
があります。
しかし、量子の本質は状況偏差の方に宿るのよ。
だって、ミクロ世界の理論化ですよ。
何を言ってるのか把握できるかな?
螺旋に昇れよ。

 

数式で基準を設定すると。
そこからの誤差という概念が登場します。
しかし、状況偏差は誤差とは別世界の概念なの。
たとえ、確率論的アプローチでも。
そういう統一基準を設定すること自体が甘いのよ。
それが理解できないわけだ、旧量子論学者には。

 

だから、最後には、メタのモデルが登場し。
「実験を眺める主体」
なんて持ち出して。
「意識」
なんて要素が出現したりする。
「見るまでは決まらない」
とかね。
フォン・ノイマンの功績だ。

 

上手いなあ、曖昧さの処理が。
状況偏差を哲学で包むか。
この種の曖昧さを、新量子論で、どう処理するか?
漠然とした比喩回答をしておくと。
「フォン・ノイマンの意識は状況偏差で消滅する。」
これで分かれば、私の弟子になれます。
これで352町目。

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