2022年12月28日 (ハイパー神商)
前回までは思考実験の方向性というか。
基本思想の重要性を悟らせるのが目的でしたが。
思考実験ではなく実際の量子論の実験として。
電子・光子の二重スリット通過実験というものがあり。
スクリーン上の模様問題が生起しますが。
これにも、境界の曖昧性が関与します。
スクリーン計測結果、干渉縞・2本縞以外の第三種模様出現も有り得るということ。
この斬新さが意思決定レベルの中間状態の把握法に繋がります。
それを悟らせるのが人生の猫の功績。
というわけで、今回から暫くは、二重スリット実験の話題に入り。
第三種模様について論じて行きます。
まずは伏線として、量子論の
「観測問題(measurement problem)」
に蘊蓄を傾けます。
2重スリット通過後の縞模様問題を取り上げるわけですが。
これを説明するにあたって、私は
「観測 vs 計測」
と用語をキチンと分けて使用します。
今回は、これに関し深堀する話題を。
従来の物理猿は、この二つの概念を区別していません。
脳タリンなので区別できてなかったのです。
しかし、観測と計測を混同使用してるようでは話にならない。
英語では、共にmeasureを使っていますが。
これは、本来、計測という概念ですよ。
いずれにせよ、どの教科書でも、用語をmeasureで統一して。
measureの適用範囲を論じてない。
これじゃ駄目でしょう。
観測の範囲問題が判ってない馬化の証拠だ。
神が日本語で峻別したのだから、計測と観測は別概念です。
ゆえに、英語でも、何処の国の言葉でも、別用語使用すべきなの。
英語では、observeなんて単語がありますが。
このニュアンス(出た、曖昧さ!)は、どちらかというと、汎用の
「観察」
であって、量子論の場合のように、
「波束収縮」
概念が絡む用語には相応しくない。
やはり、この状況では、計測に対峙する概念として
「観測」
としておいた方が科学的態度。
現時点で区別してない国は新単語造りなさい。
そうじゃなければ、人間の住む国じゃなくなりますよ。
「t(s)unami」
や
「senpai」
みたいに日本語利用して、そのまま
「kansoku」
としますか。
言っておきますが、日本語に“観測”という単語があったからと言って。
日本人研究者が、キチンと両者の区別を認識できていたということにはならしゃいません。
馬化の二乗で、measureを“観測”と訳してきただけ。
“計測”と区別翻訳できてないレベルです。
それが証拠に。
例えば、日本得意のニュートリノ実験ですが。
あれは、観測したのか、それとも計測したのか?
新聞記事として証拠残っているから、興味があれば調べることが可能。
マスゴミは用語をごちゃ混ぜにして使っていますよ。
研究当事者連中も、どちらの用語使っているか意識してないのでは?
「天体観測 vs 天体計測」
みたいな感覚なのか?
そうなると、両者の境界は微妙になってきますね。
ニュートリノの場合、感じで分ければ、
「存在確認は観測 vs 質量云々は計測」
とか。
しかし、科学は感じでは通用しない。
日常言語を専門用語として使ったら、その都度。
各々のケースで、用語の定義を確認する必要があります。
何故、観測と計測を峻別する必要があるのか。
今回、それがキチンと判明するという筋書き。
こういう説明は、聞けば誰でも納得しますが。
聞くまでは、漠然と混同して使用しているもので。
結局、区別できてないのです。
というわけで、ここから本論に入ります。
量子論の基本原理は数式で定義されます。
すると、その適用範囲の問題が起きます。
通常は、“何となく”範囲が決まるのですが。
中には、同じ(専門)用語が、異なる定義で使用されることがあり。
プロでも誤解するケースもある。
誤解で済めば良いけど、曖昧なまま放置される場合もある。
というわけで、以後、二重スリット実験での概念峻別に関する課題を
「観測 vs 計測のパラドックス」
と呼ぶことにします。
創始者特権。
「計測とは何か?
何であるべきか?」
vs
「観測とは何か?
何であるべきか?」
これが以後の課題になります。
誰か、解答を出せると豪語する猿がいれば、知らせてみ。
脳タリン猿の妄想だと悟らしてあげるから。
こういう峻別方向で量子論を検討した猿は皆無。
その証拠が用語使用法。
だから、量子論の深層真相に迫れない運命。
というわけで、解答を提示しておくと。
計測の方は、
「スクリーン上の模様に関する話」
ですが、観測の方は、
「量子発射後、スクリーンに至るまでの話」
これで峻別できました。
何故、従来の量子論は、こういう単純な区別ができなかったのか?
それには理由があります。
観測途中、スリットのどちらを通過したか“狭義観測”すれば。
その時点で、波束収縮が生起したとも見做せるからです。
つまり、目で見て、どうこうじゃなく。
「“狭義観測”行為により、波束の収縮が起きる(ように見える)」
のです。
一方、スクリーンによる計測も、波束の収縮に関する課題です。
この意味で、計測と狭義観測は、波束の収縮という概念で繋がりがある。
だからこそ、狭義観測結果、計測される模様が干渉縞から2本縞に変化するわけですが。
これが混同の原因にもなるの。
観測と計測の混同が、どういう方面に影響するのか?
今後も、テクニカルな観測手法や観測装置が増えるにつれ。
観測行為は複雑化していき。
雑音や誤差排除の課題が生起します。
そこで、大事な推論が。
ここでの根源懐疑は(干渉縞から)
「2本縞に模様が変化したら、観測で波束の収縮が起きたのか?」
逆に、
「観測で波束の収縮が起きたら、模様は2本縞になるのか?」
その心は?
「観測結果模様が2本縞にならないケースがあるのでは?」
観測手法を複雑化していくと、計測結果の模様は、
「干渉縞 vs 二本縞」
の二者択一ではなく。
「第三の模様が出現するのでは?」
という懐疑です。
だって、すでに、誤差とか、雑音という概念を認識できているわけで。
何故、それを、誤差や雑音と認識するのか?
計測結果が乱れるからでしょう。
このレベルなら、まだ、
「観測 vs 計測」
は連動しているので。
両者の区別問題にまで猿の思考が至らないのですが。
一方で、テクニカル観測の境界問題というのがあります。
ここで3択問題が出現。
量子論の観測には時間計測が含まれてないですが。
時間計測は、
①量子論の範囲でも、“原理上”、できるのか?
(この原理上の意味が深い。
直ぐに説明します。)
②Yesの場合、今の技術で可能か不可能か?
(数mの光速飛行だぜ。)
③やる必要がないと言うのなら、その理由は?
今まで、誰も、キチンと問題化できてなかったの。
こういう3択問題が重要です。
曖昧さの科学的(論理的)指摘ですよ。
ついでに、
「観測 vs 計測」
の用語問題も出現してます。
ここで、①+②+③を検討しておくと。