2025年7月28日

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2025年7月28日 (ハイパー神商)

 

物理は枠外概念を枠内化しようと画策するわけですが。

哲学とは違い、枠外概念に対し、

「物式」

使って、枠内モデル化をしている模様。

それが状況依存ではない点が致命傷なんですよ。

論理の厳密監査に耐えれるような話じゃないの。

おまけに、枠内化しても類推するのが物理の宿命。

計算論におけるAIの類推と双璧だな。

 

ここで採用した用語

「物式」

とは、数学で使う

「数式」

との対比から採用した専門用語です。

創始者特権で著作権設定。

 

数式との根本的違いを指摘しておくと。

そもそも、扱う対象が純粋理想世界ではなく、目の前の物理現象。

それを、

「如何に近似抽象化するか?」

というモデル構築が主目的。

この根本的相違があるので、新用語を採用して差異を強調したのです。

 

ちなみに、以前、

「術式」

という用語を使って物理における推論の漠然性を感じさせようとしたのですが。

以後、術式は、より不完全な形式理論としての

「工学分野」

用に特化します。

(つまりは“技術”世界です。)

 

これで術式は怪しさ満載だと感じることができるはず。

こちらも創始者特権で著作権設定。

外科医の手術方式の話じゃありません。

数字や形式記号を使った理論化において、推論の観点から区別したものです。

このように用語を区別することで、概念の違いが明白になります。

当然、付随する状況依存性も違ってきます。

 

というわけで、量子もつれの曖昧さを議論する伏線として。

今回は、物式に関する蘊蓄を傾けます。

最後にキチンと物式概念を定義しますよ。

こういうことが出来るのが宇宙の創造主たる神。

では、宙爆開始。

 

数学において、演繹推論ベースの形式理論で採用されるのが数式。

つまり、最終的には、

「term+formula」

として形式公理体系Tに乗ると想定されているわけで。

この土台に集合論があります。

これが従来の意味での数式です。

この世界では、集合論が正しければ

「妥当性と証明可能性は第一階述語論理の範囲で一致します。」

 

一方、物理でも、数学っぽい形式的な式を採用していますが。

今まで指摘してきたように、物理は集合論に乗らない。

つまり、形式公理体系化できません。

枠内近似理論化することで、何とか、形式理論として扱っている気分でしょうが。

残念ながら、そこで採用している推論方式は演繹推論じゃないのよ。

あくまでも、類推です。

まずは、このレベルの類推の意味が把握できるかな?

 

格真利益は、

「何を基準にして、真偽を決めるのか?」

です。

物理の真偽基準は、あくまでも、形式理論外の実験結果。

これに近づける為、ある種の曖昧さや漠然性を取り込もうとします。

ここから類推が忍び込むのです。

具体例は量子論。

 

反射神経に近い一段推論までは、類推で何とか正しさ保存できているように感じても。

残念ながら、推論を重ねていくと、想定モデルから逸脱していきます。

類推である限り、厳密な正しさ保証はできないのですよ。

この場合の

「正しさとは何か?

何であるべきか?」

ここに

「(純粋)数学 vs 物理(科学)」

の基本的相違問題が横たわっているのです。

 

数学の正しさとは、証明場の正しさです。

演繹推論して、出した結論の正しさを保証する作業。

一方、物理の正しさとは?

それは、想定モデルとの整合性です。

だからこそ、実験で推論(類推)結果と違う結果が出れば。

暫くは、実験の方を雑音混入として処理しますが。

やがて、どうにもならなくなると。

想定モデルの方を改変するのです。

 

これは、

「現実物理(世界) vs 理想数学(世界)」

の相違問題なので、どうしようもないのです。

数式は演繹推論しか興味がありません。

類推なんぞ絶対に駄目。

一方、物理は平気で類推します。

その結果、新発見に繋がるケースもあるの。

 

この意味での、

「演繹 vs 類推」

の相違がピンと来ない猿が多いでしょうから。

具体例として伏線を張っておきました。

まずは、

「実験 vs モデル」

の差問題。

その見本が微分です。

 

「物理における微分の正しさとは何か?

何であるべきか?」

モデルからの推論で得られた結果と実験結果が違う場合。

立てたモデルが甘かったから、そういう破目になったわけですが。

モデルの物式だけを見れば。

一見、演繹推論をしているように見えるカモ。

 

しかし、それは、

「間違ったモデルを設定した結果の間違った結論」

であり、それに何らかの価値や意味を見出そうと画策する行為が。

すなわち類推です。

このメタの作業が物理の核心仕事ですから。

物理は類推作業から逃れられないの。

そもそも、雑音とか誤差とか言い出すと。

それこそがメタで類推している証拠なんです。

 

一方、モデルから結論を得る推論自体が類推になるケースもあります。

特に、確率なんか採用したモデル化では、こういうことが日常茶飯事。

ここの処の機微は、演繹推論とニューロ出力の中間推論としての

「ファジィ推論」

が分かり易い。

式の変形レベルでは、キチンと結論を出しているのですが。

何故、多段推論で曖昧さの爆発が起きるのかです。

 

あの場で使う技が

「暗流枠破」

これを知らずに類推は語れません。

それも知らずに、一人前の気分で生きている物理猿の惨めさ。

どうじゃ気分は、量子猿よ。

 

量子猿は、自分達のやっている物式ベースの推論は演繹の気分でしょうが。

しかして、その実体は?

演繹じゃありません。

その証拠に、量子論は古典論理ベースの形式公理体系に乗らない。

集合論以前の問題です。

この意味で、演繹ではないアドホック推論使っているわけで。

これを、類推と呼んでキチンと区別するのが神。

 

「デモ、非古典論理ベースの演繹ではないのか?」

フフン、その非古典論理なるものを構築してから出直してきて。

量子論理では、どうか?

あんなもの、使い物にはならないことは誰でも分かっているはず。

いずれにせよ、非古典論理の演繹なるものは古典からすれば類推にすぎません。

そして、いいですか、ここがポイントですが。

最終的には、メタで古典に乗るしかないの。

 

ここの最重要箇所が分かってないのよ、非古典論理には。

具体例は?

実数の非可算性証明でやったように。

猿でも反実仮想で推論するのです。

どのメタレベルであろうが、

「矛盾すれば、それまでの複数の仮定のどれかが間違いだ」

という推論。

微分よりも大事。

 

「全ての道は背理法に通じる。」

これが古典の専売特許。

これがメタレベルの類推ですが。

複数仮定の内、特に、どれが怪しいか?

当然、非古典論理での結論を仮定にしたケース。

だって、推論が古典ベースじゃないもの。

こういう風に特化して見た場合、類推だと言ってるの。

 

一般に、類推でも、

「式ベースでの推論」・・・(式)

は可能です。

AIなんかも、(式)で回答しているわけです。

こういう場合の式の推移というか。

変形作業を実施する場を

「類推場」

と名付けます。

「結果の正しさが保証されない推論体系」

という意味。

 

というわけで、物式の定義ですが。

「物理モデルの類推場で採用される式」

を物式と名付けます。

微分のように、物式が数学で使われる数式の場合もあります。

しかし、

「証明場 vs 類推場」

として採用される場が違うのです。

 

中には、既存の数学では採用されない物式もあります。

それを、無理矢理、枠内近似数式化すると。

数学における、新たな式の誕生に繋がります。

この意味では、最先端物理は数学に貢献できるのですが。

如何せん、式の採用される場が違うのです。

 

今回、蘊蓄を傾けたのは

「実験 vs モデル vs 推論」

の3題話。

相互関係が把握できたかな?

今回の話の、どこまでがモデル関与で、何処からが推論関連か。

キチンと区別できない程度の猿は物理をやる資格なし。

 

但し、当然、

「モデル vs 推論」

は相互に干渉します。

「何を基準に考えるのか?」

「物理の真理とは何か?

何であるべきか?」

メタメタ深いなあ。

 

科学哲学じゃありませんよ。

物理理論の話をしているのです。

今回のような指摘が出来る脳力が神。

こういう局面から先に進むため、B‐embedがあるという宣伝。

新量子論や次世代AIには必須です。

これで394町目。

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